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首をはずす幽霊 〜「異苑」より
(『幽明録・遊仙窟』東洋文庫43 平凡社 114ページ〜) 晋の夏侯玄(注一)は字を太初といったが、当時非常な才人として人望があったため、司馬景王(注二)に嫉まれて殺された。
一族の者が玄の祭壇を作り、祭っているところへ、玄が姿を現わし、霊座の上にすわった。そして、自分の首をはずして横に置き、果物や魚肉などの供えものをことごとくかき寄せて、頸の穴の中につめ込んでしまうと、また自分の首を、もとどおりに据えつけた。
そうしてから、玄は言った。
「私の告訴は天帝(注三)に聞きとどけられたぞ。司馬子元には後継ぎができないだろう」
ほどなく永嘉の乱(注四)が起こったが、乱が治まり軍隊が引き上げてから、はたして景帝は死んで、後継者はなかった。
その後、ある巫が、帝が現われて泣きながらこう言うのを聞いた。
「国運が傾いたのは、曹爽(注五)や夏侯玄が天帝に訴えたのが聞きとどけられたからだ」
曹爽は豪族であったために殺され、玄は人望がすぐれていたために殺されたのであった。
注
一 夏侯玄
字は太初。夏侯淵の従孫である。若くして散騎黄門侍郎となり、散騎侍中護軍をへて、征西将軍に至った。(二〇九−?)。 ニ 司馬景王
名は懿、字は仲達。生来猜疑心の強い人であった。曹操のとき、太子の中庶子として策謀を奉っていたが、その才はすぐれており、太子の信任が厚かった。また、魂の将軍として五丈原に出陣し、諸葛亮と戦った語は有名である。死後諡して宣帝といった。 三 天帝
よろずの神々を支配する至上神である。 四 永嘉の乱
永嘉は晋の懐帝の年号。永嘉五年(三〇七)に、劉淵がみずから帝と称し、石勒が洛陽をおとしいれ、帝を捕虜にするという事件が起こった。これを世に永嘉の乱と呼ぶ。 五 曹爽
三国時代、魏の人。曹真の子。字は昭伯。斉王芳が即位すると、武安侯に封ぜられたが、その生活は奔放をきわめ、おりからの蜀への進撃が失敗したこととあいまって、ついに司馬懿のために殺された。 |
解説?
○夏侯玄は、魏の末期に司馬氏の専横に抵抗して殺された人物です。手元の資料では、208年生〜254年没。「晋の夏侯玄」って誰だよ?!
○司馬景王とは、司馬懿の息子の司馬師(司馬子元)のことです。
司馬師には子どもがなく、弟の司馬昭が跡を継ぎました。だから、永嘉の乱で滅んだのは司馬昭の子孫です。
○永嘉の乱の後に亡くなった帝というのは、たぶん晋の愍帝=司馬昭のひ孫をさします。永嘉の乱まで司馬師が生きとったら100歳こえとるがな!
「異苑」はいわゆる「志怪小説」、ファンタジーなので、アラ探しをしても仕方ないのですが・・・。
でも、どこまでが誤訳で、どこまでが原文の間違いなのか、知りたいところです。。。
ネットの漢籍データや、日本の書籍には「異苑」原文はないようなので、どっかで中国の出版物を探すしかないですな・・・。 |