国淵

こく・えん 字は 子尼 しじ

生没年不明(わりと早死したらしい) 楽安国蓋県の人
「三国志」魏書の《袁張涼国田王邴管伝》に列伝がある

 後漢の学者・鄭玄に師事し、才能を認められた。
 一時、動乱を避けて山中に住んだのち、曹操に招かれ、屯田の事務に当たった。
 211年、曹操が関中を征討したとき、留守で反乱が起こり、国淵の対処がすぐれていたので、曹操は上機嫌で魏郡太守に昇進させた。

 当時、魏郡で政治の誹謗をする投書があり、曹操はおおいに怒り、どうあっても犯人を捕らえるよう命じた。国淵は、その投書に「二京の賦」の引用が多いのを手がかりにして、投書人を逮捕し、尋問のうえ事実を確認した。

↑これが、第1話の元ネタ。国淵の手柄よこどり、ごめんです。

 国淵は、公けの場での議論ではつねに厳正な態度で直言したが、退席後はしこりを残さなかった。大臣の位に上ってからも、粗衣粗食の生活を送り、在職中に亡くなった。

国淵は生没年不明だけれど、正史の記載からすると、曹操くらいの世代の人だったようです。
(ちなみに、曹操が死んだ220年には、国淵はすでに故人でした。)
つまり、司馬懿よりは30歳くらい年上。
また、彼が鄴の太守だったのは、211年以降ですから、
史実では、そのころ司馬懿は30代、丞相府に勤めていました。

2003/07/?