BIOGRAPHY
晋書宣帝紀をもとに、年表スタイルでお送りします・・・
後半生は製作中(^^;)
こども時代 |修行時代 |魏文帝のもと |諸葛亮との対決 |覇権へ
179(光和二)年 | 0歳 |
司馬防の第二子として生まれる。 |
教育方針は厳しく、父が許すまでは、食事どころか姿勢を変えることすら許されなかったという。 |
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190(初平元)年 | 11歳 |
董卓が天子を擁する。 |
194(興平元)年 | 15歳 | 避難先から故郷へ帰る。 |
十代の司馬懿は、人物鑑定の名人として知られた楊俊から「非常之器」と評され、司馬朗と親しかった崔0は、司馬朗に対し「きみの弟は聡明で豪胆だ。きみは弟に及ばないね」と言ったという。 失礼なやつだ。 |
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201(建安六)年 | 22歳 |
河内郡上計掾(会計係)となる。 |
208(建安十三)年 | 29歳 |
丞相となった曹操は、丞相府の文学掾(文書担当補佐官)に就くよう強力に要請。司馬懿はやむなく承諾する
・・・と晋書には書いてあります。 |
太子(曹丕)のお相手役から黄門侍郎(侍従長)、議郎(審議官)・丞相府属官、主簿(事務次官)を歴任。 |
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215(建安二十)年 | 36歳 |
曹操の張魯討伐に丞相主簿として従軍。 |
曹操に従って孫権を打ち破る。 |
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217(建安二二)年 | 38歳 |
曹操が魏王となる。 |
軍司馬(副官)になり、曹操に軍屯田を建策。これが容れられ、魏の財政は豊かになった。 |
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219(建安二四)年 | 40歳 |
蜀の将軍・関羽が樊を包囲し、魏の救援軍が水攻めに襲われて投降した。曹操は、後漢の献帝の所在地・許昌が敵に近いため、遷都を考えた。司馬懿は遷都に反対して、かわりに蜀と呉を離間させる策を献じた。策は採用され、呉によって関羽は斬られた。 |
220(建安二五)年 | 41歳 |
正月、曹操が洛陽にて没。司馬懿は一糸乱れず葬儀をとりしきり、曹操の柩をまもって4に帰ったため、朝野の不安は落ち着いた。 曹丕、丞相と魏王を継ぐ。司馬懿は河津亭侯に封ぜられ、長史(丞相府のトップ。幕僚長)に就任。 孫権が西征の気配を示し、その進路にあたる魏の二城には兵糧が無かったため、朝議は二城の放棄を決定した。司馬懿は一人反対し、孫権が魏を攻撃するはずがないと主張したが、採り上げられず、魏は二城に火をかけて撤退した。 はたして孫権は二城を攻撃せず、通過しただけだった。 |
同(黄初元)年 |
十月、曹丕が帝位に就く。魏の文帝。 丞相府の消滅にともない、司馬懿は尚書台(文書行政の中枢)に移る。 尚書から、督軍(軍司令官)、御史中丞(検察次官)に転じ、安国郷侯に報じられた。 |
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221(黄初二)年 | 42歳 | 督軍の職の廃止に伴い、侍中(枢密顧問官)、尚書右僕射(主任政務秘書)となる。 |
224(黄初五)年 | 45歳 |
曹丕が呉に親征。陳羣が従軍し行台(前線の尚書台)を開き、司馬懿は許昌で後台(後方の尚書台)をまかされる。 向郷侯に封ぜられ、撫軍将軍として兵五千の指揮権、給事中(皇帝補佐官)、録尚書事(宰相職)の兼務を命ぜられる。 司馬懿は固辞するが、曹丕曰く「政務に忙殺され、息つく暇もない私と苦労を分かち合ってほしい」 |
225(黄初六)年 | 46歳 |
曹丕がふたたび呉に親征し、司馬懿はまたも留守居役を命ぜられる。 出立のさい、曹丕は「後方のことが心配だからこそ、卿に任せる」と全幅の信頼をよせる。 ついで、曹丕は広陵から帰還すると、自分が呉を攻める時は、司馬懿が蜀に備え、自分が蜀を攻める時は、司馬懿が呉に備えるよう命じる。司馬懿は許昌に駐屯して、呉への備えに当たることになる。 |
226(黄初七)年 | 47歳 |
五月、曹丕、崩。40歳。病床にて、曹真、曹休、陳羣、司馬懿の4人を召し、後事を託す。 曹叡、即位。魏の明帝。司馬懿は舞陽侯に封ぜられる。 八月、呉の孫権が江夏を包囲し、さらに呉の将・諸葛瑾と張覇が襄陽を攻撃した。司馬懿は孫権を敗走させ、諸葛瑾の軍を破り、張覇を斬った。 十二月、驃騎大将軍となる。 青青生コメント 三国志によれば、江夏で孫権を敗走させたのは城の守備隊であって、司馬懿ではありまへん。 |
227(太和元)年 | 48歳 | 六月、宛県(南陽)へ赴任。荊州・予州の軍事の全権を任せられる。 |
228(太和二)年 | 49歳 |
一月、蜀に内応した新城太守・孟達を斬る。 そもそも、孟達は蜀から魏に投降した部将だったが、曹丕の寵愛を得て手厚く遇されていた。そのため曹丕が崩じると孟達は不安になり、蜀の諸葛亮と内通した。しかし内通はじきに露見し、孟達は蜀・呉軍の動きに応じて挙兵しようとしたが、司馬懿が隠密に討伐軍を動かして城を包囲したため孤立し、攻城16日で敗北した。このとき司馬懿軍は、昼夜兼行で1200里を8日で駆けたという。 (一月、蜀の諸葛亮の北伐。街亭で敗北。) (十二月、諸葛亮が陳倉を包囲するも、じきに撤退。) |
呉への備えとして宛に駐屯し、農業を振興し浪費を戒めた。 |
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230(太和四)年 | 51歳 |
一月、大将軍となる。 七月、大司馬・曹真と司馬懿に詔勅が下り、蜀へ侵攻。 九月、長雨で撤兵。 |
231(太和五)年 | 52歳 |
三月、曹真、没。 諸葛亮が天水に侵攻したため、司馬懿は長安に派遣され、雍州・梁州の軍事を統括しこれにあたる。 青青生コメント ここの記述は、晋書と三国志では真逆。 |
232(太和六)年 | 53歳 | |
233(青龍元)年 | 54歳 |
九月、降伏して国境守備に当たっていた匈奴が反乱。司馬懿は部下の将軍を派遣して降伏させた。 青青生コメント この記述は晋書にはありません。三国志からのデータ。たしかに、司馬懿は大将軍として命令しただけで、彼の手柄ではないですね。 |
234(青龍二)年 | 55歳 |
三月、諸葛亮が斜谷から出撃し、五丈原に陣をしいた。 八月、諸葛亮が死去したので軍を引く。 |
235(青龍三)年 | 56歳 |
238(景初二)年 | 59歳 |
遼東の燕国を討伐、公孫淵を滅ぼす。 12月、遼東遠征の帰途に、曹叡重体と聞き、洛陽に急行する。 |
239(景初三)年 | 60歳 |
曹叡、崩。臨終間際に、曹爽と司馬懿に太子・曹芳の補佐を頼む。そもそも、帝は曹氏・夏侯氏などの帝室に近い人物5人に後事を託そうとしたが、秘書官僚の画策で、曹爽と司馬懿に変更された。その秘書官僚は、司馬懿と結びついていた可能性が高い。 曹芳、即位。魏の廃帝(諡号は斉王)。 司馬懿、太傅に就任。 |
240(正始元)年 | 61歳 | 曹爽、大将軍となり、対蜀方面を担当。司馬懿は対呉方面を担当。近衛軍では、曹羲(曹爽の弟)が中領軍、司馬師(司馬懿の子)が中護軍、という具合に、曹爽vs司馬懿の対立が深まる。 |
247(正始八)年 | 68歳 |
4月、司馬懿の正妻、没。 5月、風痺(リューマチ)の再発を理由に、隠居。 |
248(正始九)年 | 69歳 | 12月、曹爽の腹心・李勝が、司馬懿の様子をさぐりに私邸を見舞う。このときの司馬懿の、もうろくじいさん演技は迫真。 |
249(正始十)年 | 70歳 |
正月、クーデター的に曹爽を弾劾、4日後、曹爽一族を処刑。 これ以降、司馬氏は魏朝廷内で専横を強めていく。 |
251(嘉平三)年 | 72歳 | 8月、没。 |
こののち、265年に司馬懿の孫・司馬炎が曹奐(魏の元帝・曹操の孫)から禅譲をうけ、晋を建国。司馬懿の死後14年。
また、263年に蜀、280年に呉を滅ぼし、晋が中国統一を果たす。