BIOGRAPHY

司馬懿の伝記

晋書宣帝紀をもとに、年表スタイルでお送りします・・・
後半生は製作中(^^;)


こども時代修行時代魏文帝のもと諸葛亮との対決覇権へ


こども時代

179(光和二)年 0歳

司馬防の第二子として生まれる。

教育方針は厳しく、父が許すまでは、食事どころか姿勢を変えることすら許されなかったという。
広く学問を修め、とくに儒学に傾倒した。

190(初平元)年 11歳

董卓が天子を擁する。
父・司馬防は不安な世情を気づかい、長子・司馬朗に命じて家族を連れて郷里へ帰らせる。 司馬朗は董卓に足止めされるが、賄賂を使って切り抜け、故郷へ帰る。
諸州で反董卓の兵が挙がり、故郷・河内が戦場になることを見越して、司馬朗は黎陽の知人を頼って一族で避難する。このとき、反董卓軍勢のはたらいた略奪で、故郷の人民の半分近くが殺されたという。

194(興平元)年 15歳 避難先から故郷へ帰る。
   

十代の司馬懿は、人物鑑定の名人として知られた楊俊から「非常之器」と評され、司馬朗と親しかった崔0は、司馬朗に対し「きみの弟は聡明で豪胆だ。きみは弟に及ばないね」と言ったという。 失礼なやつだ。
やがて司馬懿は「司馬の八兄弟で最も優れている」という評判を得た。

201(建安六)年 22歳

河内郡上計掾(会計係)となる。
この当時、荀彧の推薦で、曹操の司空府へ招かれるが、風痺(リューマチ)を理由に断る。仮病。
あやしいと思った曹操が夜中に司馬懿の様子をさぐらせたが、司馬懿は寝台の上で身じろぎひとつせず、密偵は退散したという。
後漢王朝の衰退を見て天下の大乱を憂い、曹操に屈するのが嫌だった、と晋書にはある。
また、侍女に仮病であると知られてしまい、妻が口封じに殺したという話まである。

青青生コメント
 このエピソードは全体に作り物くさい。
 だいたい、任官拒否の理由がありません。
 のちに帝位の簒奪をして曹氏を裏切った司馬氏が、その主従関係の始まりを、そもそも司馬懿は曹操に仕えるのは不本意だった、と脚色して言い訳としたんじゃないでしょうか。
 『魏略』の逸文に
 「曹操の従弟の曹洪は、自ら粗野であることを恥じ、学問好きな司馬懿に交際を求めた。しかし司馬懿は仮病を使って杖をつき、断った。それをうらんだ曹洪は曹操に告げ、曹操が司馬懿を招いたところ、司馬懿は杖を投げ捨てて命に応じた」とあるそうです。
 この逸話を司馬氏に都合よく書き替え、任官拒否エピソードを作ったんじゃないかと思います。

ページのトップへ戻る

修行時代

208(建安十三)年 29歳

丞相となった曹操は、丞相府の文学掾(文書担当補佐官)に就くよう強力に要請。司馬懿はやむなく承諾する ・・・と晋書には書いてあります。
この年、長子・司馬師誕生。

   

太子(曹丕)のお相手役から黄門侍郎(侍従長)、議郎(審議官)・丞相府属官、主簿(事務次官)を歴任。

215(建安二十)年 36歳

曹操の張魯討伐に丞相主簿として従軍。
劉備がまだ蜀の人心を得ていない好機をついて、蜀への進軍を進言するが、曹操は取り上げなかった。

青青生コメント
曹操が「隴を得て蜀を望まず」と言って蜀へ進軍しなかったと言うエピソードは、三国志の劉曄伝にあります。そこでは、曹操に蜀攻めを勧めるのは劉曄で、司馬懿は登場しません。・・・手柄横取り?

曹操に従って孫権を打ち破る。
凱旋した曹操のもとに孫権から降伏の使者が来て、その手紙のなかで孫権は、天命が漢から曹操に移ったと述べ(曹操が皇帝になってしまえ、という意味)、臣従の意思を示したので、曹操は、ヤバいネタふりやがって、と嫌がった。
司馬懿は答えて、漢の命運は尽き、曹操は天下の十分の九を有しているのだから、謙譲するべきではないと上奏。

青青生コメント
これとほぼ同じ内容が、三国志では武帝(曹操)紀の219年10月関羽敗走のところの注にあります。 そこでは、上奏したのは陳羣と桓階。
孫権が臣従の書状を出したのは、蜀との同盟を破って関羽討伐をするときですから、 三国志の注が素材で、晋書はコピーペースト&都合よく加工ってかんじですか?

217(建安二二)年 38歳

曹操が魏王となる。
曹丕は太子となり、司馬懿、太子中庶子(太子の秘書官)を兼任。重要問題については必ず諮問を受け、そのたびに策を献じて、曹丕に深く信頼された。
同僚の陳羣、呉質、朱鑠とともに曹丕の「四友」と呼ばれる。

   

軍司馬(副官)になり、曹操に軍屯田を建策。これが容れられ、魏の財政は豊かになった。

219(建安二四)年 40歳

蜀の将軍・関羽が樊を包囲し、魏の救援軍が水攻めに襲われて投降した。曹操は、後漢の献帝の所在地・許昌が敵に近いため、遷都を考えた。司馬懿は遷都に反対して、かわりに蜀と呉を離間させる策を献じた。策は採用され、呉によって関羽は斬られた。

青青生コメント
この離間の策は、三国志では#済伝にあり、#済と司馬懿の献策と書かれていますが、晋書では司馬懿の策ということになっていて、#済は登場しません。・・・手柄独り占め。こんなんばっか。


国境地帯には、戦場の荊州から逃げてきた人や屯田兵がたくさん住んでいて、曹操は呉・蜀の勢力浸透を恐れて移住させようとした。司馬懿は強制移住はハイリスクすぎると主張し、移住は沙汰止みとなった。
父・司馬防、没。司馬懿が司馬氏の総領となる。(217年、長兄の司馬朗が病没しているため。)

ページのトップへ戻る

魏文帝のもと

220(建安二五)年 41歳 正月、曹操が洛陽にて没。司馬懿は一糸乱れず葬儀をとりしきり、曹操の柩をまもって4に帰ったため、朝野の不安は落ち着いた。
曹丕、丞相と魏王を継ぐ。司馬懿は河津亭侯に封ぜられ、長史(丞相府のトップ。幕僚長)に就任。
孫権が西征の気配を示し、その進路にあたる魏の二城には兵糧が無かったため、朝議は二城の放棄を決定した。司馬懿は一人反対し、孫権が魏を攻撃するはずがないと主張したが、採り上げられず、魏は二城に火をかけて撤退した。
はたして孫権は二城を攻撃せず、通過しただけだった。
同(黄初元)年 十月、曹丕が帝位に就く。魏の文帝。
丞相府の消滅にともない、司馬懿は尚書台(文書行政の中枢)に移る。
尚書から、督軍(軍司令官)、御史中丞(検察次官)に転じ、安国郷侯に報じられた。
221(黄初二)年 42歳 督軍の職の廃止に伴い、侍中(枢密顧問官)、尚書右僕射(主任政務秘書)となる。
224(黄初五)年 45歳 曹丕が呉に親征。陳羣が従軍し行台(前線の尚書台)を開き、司馬懿は許昌で後台(後方の尚書台)をまかされる。
向郷侯に封ぜられ、撫軍将軍として兵五千の指揮権、給事中(皇帝補佐官)、録尚書事(宰相職)の兼務を命ぜられる。
司馬懿は固辞するが、曹丕曰く「政務に忙殺され、息つく暇もない私と苦労を分かち合ってほしい」
225(黄初六)年 46歳 曹丕がふたたび呉に親征し、司馬懿はまたも留守居役を命ぜられる。
出立のさい、曹丕は「後方のことが心配だからこそ、卿に任せる」と全幅の信頼をよせる。
ついで、曹丕は広陵から帰還すると、自分が呉を攻める時は、司馬懿が蜀に備え、自分が蜀を攻める時は、司馬懿が呉に備えるよう命じる。司馬懿は許昌に駐屯して、呉への備えに当たることになる。
226(黄初七)年 47歳 五月、曹丕、崩。40歳。病床にて、曹真、曹休、陳羣、司馬懿の4人を召し、後事を託す。
曹叡、即位。魏の明帝。司馬懿は舞陽侯に封ぜられる。
八月、呉の孫権が江夏を包囲し、さらに呉の将・諸葛瑾と張覇が襄陽を攻撃した。司馬懿は孫権を敗走させ、諸葛瑾の軍を破り、張覇を斬った。
十二月、驃騎大将軍となる。

青青生コメント
三国志によれば、江夏で孫権を敗走させたのは城の守備隊であって、司馬懿ではありまへん。

ページのトップへ戻る

諸葛亮との対決

227(太和元)年 48歳 六月、宛県(南陽)へ赴任。荊州・予州の軍事の全権を任せられる。
228(太和二)年 49歳 一月、蜀に内応した新城太守・孟達を斬る。
そもそも、孟達は蜀から魏に投降した部将だったが、曹丕の寵愛を得て手厚く遇されていた。そのため曹丕が崩じると孟達は不安になり、蜀の諸葛亮と内通した。しかし内通はじきに露見し、孟達は蜀・呉軍の動きに応じて挙兵しようとしたが、司馬懿が隠密に討伐軍を動かして城を包囲したため孤立し、攻城16日で敗北した。このとき司馬懿軍は、昼夜兼行で1200里を8日で駆けたという。
(一月、蜀の諸葛亮の北伐。街亭で敗北。)
(十二月、諸葛亮が陳倉を包囲するも、じきに撤退。)
呉への備えとして宛に駐屯し、農業を振興し浪費を戒めた。
230(太和四)年 51歳 一月、大将軍となる。
七月、大司馬・曹真と司馬懿に詔勅が下り、蜀へ侵攻。
九月、長雨で撤兵。
231(太和五)年 52歳 三月、曹真、没。
諸葛亮が天水に侵攻したため、司馬懿は長安に派遣され、雍州・梁州の軍事を統括しこれにあたる。

青青生コメント
ここの記述は、晋書と三国志では真逆。
232(太和六)年 53歳
233(青龍元)年 54歳 九月、降伏して国境守備に当たっていた匈奴が反乱。司馬懿は部下の将軍を派遣して降伏させた。

青青生コメント
この記述は晋書にはありません。三国志からのデータ。たしかに、司馬懿は大将軍として命令しただけで、彼の手柄ではないですね。
234(青龍二)年 55歳 三月、諸葛亮が斜谷から出撃し、五丈原に陣をしいた。
八月、諸葛亮が死去したので軍を引く。
235(青龍三)年 56歳

ページのトップへ戻る

覇権へ

238(景初二)年 59歳 遼東の燕国を討伐、公孫淵を滅ぼす。
12月、遼東遠征の帰途に、曹叡重体と聞き、洛陽に急行する。
239(景初三)年 60歳 曹叡、崩。臨終間際に、曹爽と司馬懿に太子・曹芳の補佐を頼む。そもそも、帝は曹氏・夏侯氏などの帝室に近い人物5人に後事を託そうとしたが、秘書官僚の画策で、曹爽と司馬懿に変更された。その秘書官僚は、司馬懿と結びついていた可能性が高い。
曹芳、即位。魏の廃帝(諡号は斉王)。
司馬懿、太傅に就任。
240(正始元)年 61歳 曹爽、大将軍となり、対蜀方面を担当。司馬懿は対呉方面を担当。近衛軍では、曹羲(曹爽の弟)が中領軍、司馬師(司馬懿の子)が中護軍、という具合に、曹爽vs司馬懿の対立が深まる。
247(正始八)年 68歳 4月、司馬懿の正妻、没。
5月、風痺(リューマチ)の再発を理由に、隠居。
248(正始九)年 69歳 12月、曹爽の腹心・李勝が、司馬懿の様子をさぐりに私邸を見舞う。このときの司馬懿の、もうろくじいさん演技は迫真。
249(正始十)年 70歳 正月、クーデター的に曹爽を弾劾、4日後、曹爽一族を処刑。
これ以降、司馬氏は魏朝廷内で専横を強めていく。
251(嘉平三)年 72歳 8月、没。

 こののち、265年に司馬懿の孫・司馬炎が曹奐(魏の元帝・曹操の孫)から禅譲をうけ、晋を建国。司馬懿の死後14年。

 また、263年に蜀、280年に呉を滅ぼし、晋が中国統一を果たす。

ページのトップへ戻る