BASIC DATE
司馬 | 懿 | 仲達 | ( | 司馬宣王 | 晋の宣帝 | 晋の高祖) |
しば | い | ちゅうたつ | しばせんおう | しんのせんてい | こうそ | |
Si1/ma3 | Yi4 | Zhong4/da2 | Xuan1/di4 | Gao1/zu3 |
生没年 179年〜251年(光和二年〜嘉平三年)
出身地 河内郡温県孝敬里 現 河南省温県
人物像
晋書宣帝紀によると 司馬懿は「内に忌めども外に寛、猜忌にして権変多し」 つまり、内心では嫌っていても猫かぶりで、猜疑心が強く、臨機応変だった。 | |
「狼顧の相」 曹操が司馬懿に「狼顧の相」があると聞いて、司馬懿を御前に呼んで、急に後ろを振り向かせた。すると噂どおり、顔は真後ろを向きながら、体はまったく動かなかった。 狼のように用心深く振り向く、といった意味らしい。 |
容姿
長身一族 司馬氏はみな背が高かった。 | |
ヒゲ自慢 |
名について
先祖は、太古の帝・S
高陽の子・重黎が軍政官となって以来、堯・舜〜殷の時代を通して職を世襲し、周代には司馬(軍官)となった。 周の宣王のとき(紀元前820年頃)、世襲の官職を氏とすることを許されて、司馬氏を名乗るようになった。 秦末の動乱期(紀元前220年頃か)、司馬lは趙の部将として秦打倒のために戦い、秦の滅亡(紀元前206年)後、殷王を称して河内に都を置いた。 漢の統一(紀元前202年)後、河内は政府直轄の郡となったが、司馬氏はそのまま住みついていた。 後漢の代、司馬lから八代後の司馬鈞が征西将軍になって以降、官界で高位につく名門となる。 |
懿の意味 よい。うるわしい。 そもそもは亞+欠という字で、亞は壷の象形文字、欠は口を開けた人の象形文字。 壷の中の飲み物を口にした満足感・充実感から、りっぱである、よい、という意味になる。 |
士大夫以上の階層の人や官員、またその志望者などは、姓名のほかに、 成人したときに「字(あざな)」という通称をもつ。 | ||
仲の意味 二番目の兄。「伯・仲・叔・季」の第二番目。 | ||
達の意味 とおる。いたる。つらぬく。深く通じる。 オ+香Bオは、道を行く。高ヘ、のびやかにはねまわる子羊。 | ||
司馬の八達 司馬懿の兄弟8人は、みな「達」の付く字で、それぞれ秀才と評判だったので、当時の人々は「司馬の八達」と呼んだという。(兄弟の字は、家系図ページ参照) | ||
青青生コメント |
死後、生前の行動にちなんでつけられる追号。 | ||
司馬懿は魏の丞相として死去し、「文侯」と諡され、のちに「宣文侯」と改められた。 263年、晋国が成立すると「宣王」、 265年、孫の司馬炎が皇帝になり晋王朝が創建されると、追尊して「宣帝」と諡された。 | ||
宣の意味 すぐれた善徳があまねくゆきわたる。 【逸周書、諡法解】聖善周聞、曰宣。 聖善あまねく聞く、宣と曰ふ。 |
皇帝の死後、その霊を宗廟に祭るときにつける称号。 | ||
高祖 王朝の最初の天子のこと。 |